塾生のみなさんへ

新型コロナ感染症の爆発的感染拡大をまえにして
お伝えしたいこと

 テレビをつけると、男の後ろ姿があった。ナレーターは、救急車を呼んだもののどの病院にも受け入れを断られた患者のために、男は電話をかけ続けているのだという。
 何本目かの電話で、ようやく1本の酸素ボンベが翌日に届くという約束が取り交わされたらしい。振り向いた男の顔には安堵と疲労の色があった。
──どこの国のことだろう?
と、そのとき私は思ってしまったのだ。
 ひとり、深夜の診察室の片隅で、若い医師は、十数件にも及ぶその日の訪問診療をようやく終えたばかりだと語り始める。本当のネイティヴだけが話すことができるその綺麗な東京言葉を聞いたとき、私は自分の不明を恥じた。

 8月13日に公表された東京の新規感染者数は5773人。7月13日が830人だから、ひと月で7倍に増えたことがわかる。「重症者以外は自宅療養を」という厚生労働相の発言は、さすがにそれは僭越であろうと撤回された。だが、厚労相氏の名誉のために言えば、愚物ばかりを取り揃えたこの国の閣僚の中にあって、氏は、まともな受け答えができる数少ない人物のひとりであった。
 そして今、この国の現実を見れば、国が違えば銃殺に値するであろう氏の妄言がまるで根拠のない戯言(たわごと)ではなかったことが示されている。遅れたとはいえ国民のおよそ4割が2回目のワクチン接種を終えたこの期に及んでも、なお、この爆発的感染拡大なのだ。

 世界はすでに450万人の死と、その数字のひとつひとつにまつわる耐えがたい苦悶と喪失を体験している。その数字は、一昨年までは人類にとってもっとも凶悪な感染症とされていたマラリアの死者の数の11年分に相当する。
 それでもなお、人々は自らの明日に懐疑を抱かない。厄災はいっときのものであり、明けない夜はないと、信じている。
──きみたちは若くて、世界はこんなにも美しいのだから。
 もちろん、それは良いことだと、私も思う。
 でも、ちょっとだけでいいから、考えてみないか? ひょっとすると、私たちはこの戦いに敗れるのかもしれない。そして、その後の喪われた世界を、きみたちはどうやって生きのびていくのかと。
 あの「地獄絵図」から76年目の夏、広島県の8月13日の新規感染者数は194人、7月13日のそれは5人であった。

2021年8月17日
井上塾 井上浴